昭和47年 2月 3 日
御理解 第84節
奢りがましいことをすな ものは細うても永続かねば繁盛蛇ないぞほそうても次第に踏み拡げ通るのは繁盛じゃ 道に草ををはやすような事をすな 細うても永う続かねばそうゆう道を辿らして貰うしかも草を生やすると細いながらでも信心が続いておる。私は只、そうゆう意味はないと思うですね。只信心が、親、子、孫というように続いております。そうゆうところが沢山あります。それが踏み拡げて通るという、踏みひろげていないとするなら、それは踏み拡げて通っていないとするならそれは細々続いてはおってもここで教えれられる細い道でもという事にならないと思う。
細い道でも段々踏み拡げて行かれるところ、しかもそこに草を生やさんですむ様な生き方、それが、私が知っておる限りも、成程、大した信心は出来んけれども、細々とやはり金光様一天限りで、その金光様の信心をさせて頂いておる方達が沢山ありますが 信心をさせて頂いておるその生き方が、細々とやはり金光様一天限りで、その金光様の信心をさせていただいておる方達が沢山ありますが、その中でも確か金光様の信心をですね、させていただいておると、その生き方が道に適っていなくともですね、なんとはなしにおかげを頂く事だけは事実ですね。もう30年も50年もたって、例えばとぎれとぎれでもですね、信心が続いておる???すね。それ不思議に何とはなしにおかげを頂いてとるですよ だが今日はそう意味じゃないです。これは何ですかね金光様の・・・・・・まあ御大師様がおっしゃたというのである。南?大師?照金剛と?えてさえゆけば飢えさせはせんとおっしゃたという意味のことを聞いた事がありますけどねそれはそうでしょう南?大師?照金剛でまわっている遍路さんのことでしょうね、いうならば遍路さんでもして行けば成程食べることには、事欠かんでしょう、そうゆう意味が確かに金光様の御信心ですね??親の代からしござるという事と私は沢山知っておりますけど続いておるならばね、確かに受けとるです。不思議におかげを受けとるです。人からは、あ-あれどんが信心してもといわれよる人々でも、けどだから今日はそうゆう意味じゃないです。細い道でも段々踏み拡げて通ってしかもね、その通って来る道をです草を生やさないで済む様な信心、そうゆう信心を頂きたいと思うです。奢りがましいするものは細っても永こう続かねばいけない。。奢りがましいということもいつも問題にするところですけれども普通でいう奢りがなしいというのと違う様ですね、それこそ藤原道長じゃないないけれど、この世をばわがよと思うもちつき 月のと例えば藤原道長が云えばそれはそれでおしまいだそれが頂点で後はくだり坂だと申して参りましたね。気ども信心させていただいておる私がねその歌を例えば作るとするならばその内容を私の内容と云うならばもうこれは親の代より子の代よりも孫の代、それこそ日勝り、月勝りのおかげを受けて行かれるというのです。本当に勿体無い様なおかげを頂いてと、いうわけなのですからね。
私は、今日御神前 で御祈念をさして貰いよったらね、昔、日守新一という俳優がおりました。日守新一それを私は日を守る、進一と確かどうゆう守・・たか、私は承知しませんでしたけど、私が頂いたのは、そんなに頂いた。日を守って行く、日々を守って行く、進この一筋だと、そしてこの84節を頂いております。日々信心をもって日々を金光大神っ様で金光様の所謂生きられ方という事といままで申して参りました。まあ、そうゆう言葉が教団でも大変使われておりますね。教祖金光大神様の生きられ方という事を私どもは、神習うのだとですからお道の聖典といわれる金光大神を・まして頂きますと金光大神の生きられ方が、御自身の自寂伝の様なのもですから、こうゆう場合にこうゆう生きられなさったというのが分かるわけなんです。私は昨日もね、ここへ奉仕させて頂いてから、そのことを思わせてもらいよりましたらね、生きられ方ではない。金光大神の生きられ方を神 習うのではいけんと金光大神の魂のあとを追うのぞということと頂きました魂の後、私はそれを頂いてから本当にそうだと思いました。金光大神がこうゆうときにはこうゆう生きられかたをなさったという真似をするものじゃから実意丁寧の化物のごとあるとが・・でも出てくるわけです。本部辺りへお参りしてごらんなさい。ほんなごて実意丁寧に化物ごとあるとばかりゴロゴロしよる。あ-もうあなたこなたといいよる所謂、岡山県でね、そしておかげはいっちょもいただいとらん。それが金光大神の生き方ばっかり真似しよるから形だけは真似しよるからです。魂に触れていないからです。
私はこれを頂いてからあ教団全体が、ここんとこいいかたを改めなければいけないなと金光大神の生き方を神習うのだといくら神習うところで形だけだから、金光大神は所謂、実意一筋に生きられ方かたなのです。だからその実意丁寧神信心一筋にいきられんその魂を私どもは追って行かねばならん。その魂えを追求して行かねばならない、だから自ずと片一方の方は整って来るはずなのですけれども、その魂を追おうとせずにその形ばかりをおうところに間違いが起こってくる。間違いではない所謂、実意丁寧の化物だという様な風に極言します。本当にそうです。本当にこれは実意丁寧の権化という先生をいくらも 知ってます。けれども一つもおかげを頂きござらんです。信者も助かりよらんです。おかしいでしょう。私も今日を限りにこの事を頂いた限りにですね金光大神の生きられ方を化見習うという言葉は、使わないことに致します。その魂を追って行かなければならなん。 金光大神にそのお心がいっぺんにわかるとは思われないけれども行じてゆく内容にです。あ-金光大神のここんところはこうゆうお気持ちでなかったじゃろうかという様に段々それに肉迫して行くことがある。
奢りがましい事とする。まあいうなら贅沢はすると云うことになるでしょう。私は昨日、ここの下ったのか。五時くらいだったでしょう。そしたら思いがけないお客様がありまして一時・はかり・・・下さいと申しますから夕食に、何かおご馳走をつくろうと云うことでわけでしょうそれで・・の・ばかり待たせていただいて、ですから六時位になったでしょう。それえをよばれながら、頂きながらお客さんがそれを頂きながらまるきりこれは親先生、味の芸術品のごとあるですね。一つ一つがという程にご馳走がいっぱいに並んでおりました。まあお神酒は、どこかの金箔いりのお神酒でした。最高のお神酒を頂いて、数の子がついておりました。新若芽のきろりの酢ものでした北海道から・・先生のことから見事案なを送って来ました。その鮭をぶっぎりにして、酒の粕で、「大事に」大根を大きく切ったまあなんと云うですか・じるですかね。・・じろとも煮込みともわからん様な風にしたのがまあ、かまわんなんともいえん味でした。それにまだありました。いろいろそしてご飯になったら鯛の茶漬けでした。これには海苔とショウガが要るとよというたらあ-ショウガがあります、海苔がありますと良い海苔かんを切って、もみのりそれにでしょかそれにわさび、頂きながら申したことでした。ならでしょうがそこから買ってきなさいのりがいっちょこにあるとよかばってんねといことでなくてもうそれがそこにちゃんとあるということ、お漬物は、宮崎から壺漬けを送ってきましたからそれが出ました果物は、リンゴとバナナ、を切ってから牛乳に泳がせた様にしてからなかなか美事な出し方をしておりました。もうはじめから最後まで、成程そのお客さんが云ってました。今日のご馳走はまるきり一つ一つが味の芸術品ですねという程しのおご馳走でした。しかも、料亭なんかで食べるものではなくて、一つ一つにいうなら、勝手の方の女の人の気持ちがこもっているという感じなのです。もう本当にみな箸をつけなければおられん程しのいうならご馳走づくめで頂かしていただきました。
だからこうゆうものをいただいておるとするならば、これは、奢りがましい事になるでしょうが。藤原道長が頂いたら必ず奢りがましい事になるでしょう。ところが私が頂いたら奢りがましいことにはならんのです。あれがいっちょ足らんなら買ってこいというものがないです。ですから贅沢というものはね。自分の手に届かないものを贅沢だと私はいつも思うております。
百円の収入しかないもが百二十円の生活をするからやり損なうのです。あ、これはいかんと思うたらたとえて云うならば借金を負いかぶって困っとる云うならば、腰痛めとるのと同じだからです。すぐ、白が湯を炊かせたり梅干しで頂かなければならない様に生き方をストッと変えなければ駄目です。
生活の程度は落とさずに、そして借金がなんのこのということはおかげにならん。それは、奢りがましいことになる。千円収入のある者が千円の生活をさせて頂くならば一つも贅沢ではないという風に私は奢りがましいということをいただいとります。
昨日、守部の高山さんが見えました。お届に今、長男の英機さんが大阪の方へ転勤になりました。あちらのほうへ家内子供連れて行っとります。ところが昨日、一昨日電話が掛かってきた。丁度合楽の月次祭の日でございましたから、丁度今頃が月次祭じゃろうから、、お母さんあなたがお届に行って下さいというて、掛かってきたのは、主人が交通事故を起こしました。こちらは大きなトラック、向こうは、乗用車であった、もう、二回転して即死じゃろうかといいました。相手は、そうゆう事故じゃた。ところが実際は中から這い出してきんなさったそうです。という様におかげを頂いとります。けども後のこともおかげ頂かならんから合楽にすぐお届してくださいという嫁からの電話があった。さあそれを聞いて兄弟達が丁度居りましたものですから慌てふためいてどうしてあ-せんならんというて嫁婿に弁護士が居ります。その人にもいうてから何とかというときに、高山さんが言って居られ事ですよ。
慌てることはいらんが、ともう絶対おかげ頂いとると、だからあんたどんがそげんがたがた言うことがいらんて、お取り次ぎ頂いお願いすれば、それで良いと、あんたどんが、どうでも心配になるごたあるなら、会社に電話を掛けて見なさいと、それからすぐ会社に電話を掛けたところが運送会社ですから、こげなことは、私どもの会社は、いつもあることでございますから、馴れたことですから御心配はいりません、というて電話が掛かったというのが子供やら娘達が安心しましたとこういうのですけれども、本当に行ってから未だ一月にもならん位でしょうが参りました早うにです。それがですね。親先生、最近私の方で、おかげを受けておる事は、日々の中に神様どうしてたこの神様の働きを頂く、今沢山使用人の方達も雇って植木の苗木出しがあっとります。苗木出だしが、それがもうその一つ一つの上にです。神様の働きとは、この様なものであろうかと、思わせて頂く様な日々おかげ頂いとります。
その前の日もでした。その嫁さん恵子といわれます。恵子さん手紙が来てから里芋を送ってれというて来た、だからそれを荷作りさせて頂きよったら、大阪の方へ行くという車が自分の前を通ったと丁度英樹さんの会社の本店が久留米に在るわけです。荷作りを終わった大阪に行く事が家の前を通ったから、それに便乗して送ったというのである。いうならばその様な素晴らしいおかげを頂いとります。ですから、親先生そうゆう親神様の一分一厘間違いのない働きの中におかげを頂いとおりますし、そうゆうことの中起きておる交通事故ですからこれが神様の神ながらおかげでない筈はない例えば私の息子は、お酒を飲みますから飲酒運転であったかも知れんけどもそのことによって本人が改まってくれれば、変わってくれればもうそれこそ最高のおかげ、そうゆう最高のおかげの中,そうゆう事の中に起きてくる事であるから、これもおかげだと子供達が慌て出しました中に、いやそげん慌てる事じゃないよと話されました事の有り難い事。昨日お届しておられます。
私は今日、皆さんにわかっ頂きたい。細々というのはね。それはどうゆう百円のその日暮らしでも良い千円のその日暮らしでも良いそれは信心ですから、けど段々踏み広げさして確信に満ちた日々、しかも神様のこの様な働きの中におかげを頂いとるというそのおかげを実感しながらの細々の道でなからなければ、値打ちがないと云うことであります。
金光様の信心しよりゃいくら儲けだしてもおご馳走のたべられんという事では決してないです。何十万じゃろうが、何百万じゃろうがです。着物があると云う事ですけども、そうゆう一着物も人間氏子のために天地の親神様が作り与えて下さっておるのですもの、どうゆう山海の珍味であろうが、人間が食べなければ誰が食べるか、それと有り難く頂かせて頂けるだけ力を頂いてこそ天地の親神様は喜んで下さるのだ、と私は信じとります。
金光様の信心をすればいつもそれこそ始末倹約して、お粥ばかりすすっとらならん事では、決してないけども、お粥しか頂く資格のない人が普通の当り前のご飯を食べる事は出来ない私は思うです。
お腹が痛いのに固いご飯を食べている様なそれでは、いつまでも腹はよくならんです。貧乏しておるものが貧乏なら貧乏に、私どもの修行の一番はじめのところはそうゆうところから始まりました。親にさえ満足に食べ物を与えきらん私がです、とても食べる資格がないという事からというて食べんわけには行かんから一日一椀のお粥食で私どもは何年か過ごしました。着る資格もないと自覚に立ったところから冬もなければ夏もない只、夏服一着で四季を通さして頂きました。そうゆう生き方からです。それがほ-とそうしとかんとならんというのではなくて、段々おかげを頂いて参りました。
それが昨夜のお食事聞いて頂きました様にお客さんをしてです。まるきりこれは、味の芸術品ですねと云はしめる様な、どの一品でももう昔ならその内の一品でもあったならば、ほう、今日は珍しいおご馳走ねと喜んだしょう。それが食膳いっぱい並べているいろいろのものがはじめから最後までそうゆうおかげを頂けれる事をです頂く事こそ、おかげであってこれは、贅沢だといって、云った様な事です。金光様の御信心は大きいでしょう。信心が細うても踏み広げて通らせて頂いた道ですから、草を生やす暇がない。道に草を生やすなとおっしゃるが、成程日守新一打と思います。そうゆう日々を本当にいうなら一生懸命で守りぬかせて頂くそこには、日勝り月勝りに進展して行かん筈がない、進んで行く、細い道でも踏み広げて通るというのを例えば何十年間細々とでも金光様を忘れられません。やっぱり金光様を信心し続けとりますと云う様な意味のものではなくて金光様の信心を細々でもそれが段々踏み広げられておることの信心をきょう聞いて頂きました。
金光大神の生きられ方を私どもは神習わして頂くと、云った様な言い方をしておりましたけれども今日限りに私どもは生きられ方を真似するのでなくて、金光大神の御心の後を魂の後を私どもは追求して行かねばならん。奢りがましい事をする細っても永う続かねば繁盛じゃない細い道でも踏み広げて行くのが繁盛じゃ道に草を生やす様な事とすると繁盛の一・を辿らせて貰う様な、信心とは今日は私が聞いて頂きました様なあり方を身に付けて頂きたい。
高山さんの例を申しました。所謂、結構けだらけの生活をしておられるわけではありません。けれども日々がこの様に間違いのない働きの中に日々が進んでおるという事が例えばそこに交通事故という痛ましい起こっておってももうそうゆう神様のお働きの中に起きてくることですから、それはおかげだからと子供達を静めておられる。そうゆう生き方なんです。金光様の信心をしっよてどうした事じゃろうか、一月もたたんのにしかもお願いしておったのにという様なものでは更々ない。
まあ、ばたばたしなさんなと、心配せんでよかがと例えばその信心の薄いものにいえれる信心、そうゆう信心です。そこが今日細々としたところですね。けれどもそれをこうゆう生き方をもってするならば、これを踏み広げてゆかん筈はないです。繁盛の一途を辿らん筈がないです。草を生やす暇がないです。そして信心がない人から見たなら金光様の信心しよりゃあげん贅沢しよかじゃろかと、思われる位な生活がそれこそ有り難い勿体無いで出来る様なおかげを頂きたいと思うですね。
どうぞ。